「誤読の責任」はどちらにあるのか?

「読み手責任論」か「書き手責任論」か そのような「用語」があるかどうかは知りませんが。


ネット上に限らず 「言論」というのをやっていると 自分の書いた文章を「誤読」されて批判される事が、 まま、あります。


その事について 「ちゃんと読まずに/読解せずに  批判するのはオカシイ」 という批判もあります。 一方で 「誤読を招くような表現をした  書き手にも責任がある」 という批判も、あります。


「誤読」は読み手と書き手のどちらに 責任があるのでしょう?


「読み手」には全く責任がない とする人も、居ます。 曰く 「ネット上で全世界に発信しているのだから  誤解されないように表現する責任がある」 とか 「ネットは単なる道具だから  相手の意図を汲み取る必要はない」 とか。 そして、それが一般的だと主張する人も、居ます。


一方 「誤読するような人には  人を批判する責任はない」 とする人も、居ます。 「相手の文意を読み取るのは  批判する際の一般的なマナーだろう」 というのが常識だと言う人も、居ます。


ただし 私は、そのような「責任追及」は無意味だ と思うんです。


大事なのは 「責任追及」ではなく「誤解を解く事」 ではないでしょうか? 互いに「責任」をなすり付け合う暇があれば 書き手・読み手の双方が誤解を解くように努力し合う、 その方が、 ずっと建設的だ、と思うのです。


そして、これは 「何の為にネットをやるのか」 の問題だと、私は思います。 「相手を言い負かす」事は目的と化してるから 『責任追及』という発想が 出てくるのではないでしょうか? 「相互理解」を目的としていたのなら その前に「誤解を解こう」と考えるのが 当然の事でしょう。

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このテーマは 前にこの事で不愉快な言いがかりをつけられ 粘着された時から、 ずっと書かないとイケナイと思っていた事です。 半年も後になってしまいましたし、 よりによって、こういうリニューアルをした直後に こんな誤解を招きそうなテーマを書くのも リスキーな事ですが。


その時から思っていた事ですが ここで言う「責任」という言葉には 「言葉を封じ込める」意味を持ってると感じます。 過剰に「責任」を要求する事で 「言葉を封じ込める」方向に行くのは マズいと個人的に思っています。


私の基本的な考え方は なるべく多様な言論が発せられる環境を保つべき というものなので。 どんな稚拙な言葉も発せられるべき 発せられた中から淘汰されていけば良い 発せられる前から封じるのは間違いだ という考えで書かれたのが 「『棲み分け』が大事(ネット言論の多様性を保つために)」 だった訳で。


もちろん プライバシー流出など 発せられる事で「被害」の出る事例も有り それは「発せられる前から規制されるべき」 でしょう。 でも、そういう例外的事例以外は 基本は「どんな言葉も発せられるべきだ」 だと考えています。


だから 「誤解に基づく批判」もアリでしょう。 過剰にその「責任」を追求して 「誤読するような人には  人を批判する責任はない」 とまで言うと 「誤読してるかもしれない」と恐れる人の 言葉を封じてしまわないかな? 「相手の文意を読み取る」 のが 「批判する際」には望ましいと思うけど 私が思う「一般的なマナー」は 「誤解が分かれば速やかに訂正する事」 だと考えたいです。