道路族の憂鬱(再掲)

(この記事の概要)
・最近の言論状況は  みんなが被害者の立場から語っているように思う
・お互いの「被害者意識」をぶつけあっているだけでは  建設的な議論は始められない

(この記事は昨年の2月頃、  ホームページで公開した文章を再掲しています。)

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今、「ムダな高速道路建設」で生計を立てている人は、 どういう気持ちでいるだろうか?

この文章は 私自身にとって、結構「いたい」ものです。 だから、特に途中までは、 読んでいて陰鬱な気分になるかもしれません。 ですが それなりに重要な事が書けたと思いますので、 最後まで読んでいただけると幸いです。

「道路族」の憂鬱

国の財政がピンチで、 お金の無駄遣いをやめないといけない、 と言われるようになって随分経ったように思います。 そして、 特に、公共事業に対して、 厳しい目が向けられるようになりました。

公共事業は、 元々は必要な社会資本を整備するため・・・ って、言葉が堅いですね。 要するに、社会にとって必要な共有のものを作るため、 のハズなんですね。 それと、 経済に対する意味もありました。 社会資本を整備する事で経済を活性化する事と同時に、 国や役所がお金を使う事で景気を活性化しよう、 という狙いです。 (これを、経済学の言葉で「乗数効果」と言うそうです。  国が使ったお金が巡り巡って  「何倍(何乗)」にもなって  経済を活性化する、という意味みたいですね。)

しかし、 今の日本は、社会資本の整備は随分と進んできていて、 昔ほどは、多くの公共事業をする必要は なくなってきているでしょう。 経済に対する効果も、 今の日本では疑問に感じられるようになりました。 「乗数効果」も、作られたものが経済の活性化に使われて 始めて意味がある訳で、 成熟した今の日本社会ではそれほど大きくないようです。 それでも、 「政治家が自分の地元にお金を落とすため」に、 あまり必要ではない公共事業が今でも随分と行われている、 と言われています。 特に、 公共事業を行う業者と政治家が結びついて、 献金をしたり、票集めをすることで、 「日本全体のため」ではなく 「そういう献金・票集めをしてくれる  一部の人たちの利益のため」に 「ムダな公共事業」が行われ、 それによって国や役所の借金はますます増えてしまっている、 との事です。

特に「目の敵」とされているのが道路工事で、 この事は最近、大きな政治的問題とさえ なっているのでご存じでしょう。 「ほとんど使われない、  無駄な高速道路がたくさん造られる」 そのために、借金は減らずに増え続けるばかりです。 高速道路の使用料金も高いままで、 それでも採算の取れない道路がいっぱいある。 それでも「ムダな道路」が作られる事は 止まることはない・・・

この仕組みをなんとかしよう、という事で、 「構造改革」が謳われていますが、 実際には迷走を続けているようです。

まあ、ここまでは、 マスコミなどでしきりに言われている話です。

しかし、 実際に「ムダと言われる公共事業を行う業者」で働き、 「無駄な道路工事」で生計を立てている人は、 いっぱい居るわけです。 そういう人たちは、 今、いったいどういう気持ちでいるのでしょう? 自分のやっている仕事が「ムダ」と言われ それどころか国の借金を増やす元凶のように言われる。 自分たちが、まるで、 国家に寄生し日本を食いつぶしてしまう存在 のように言われる。 それは、どういう気分なんだろうかって。

そういう人たちの「気持ち」とか「意見」とかって、 メディア上で見たことが、残念ながらないんです。 また、身の回りにそういう仕事をしている人もいませんし、 だから、全然わからないんですね。 こういうご時世ですから、 そういう人たちも言いにくいって事もあるでしょうし、 メディア側もその言い分を取り上げようとはしていない、 のでしょう。 だけど、 このように一方的に悪者にされている側の人たちが、 どういう気持ちでいるのか、は、 非常に気になる、んです。

誤解しないで頂きたいのですが、 私自身、公共事業のあり方について見直すべきでない と言いたい訳ではないんです。 私たちの税金が有効に使われず、 「一部の人たち」の利益だけに使われ、 その為に、税金や保険などの負担が増え、 金利も抑えられ、景気も一向に良くならない、 この状況には怒りすら感じています。 だから、 「本当に意味のあること」に、 私たちの税金が使われるための議論は 大いにするべきだと考えています。

だけど、 そういう「議論」によって 「切り捨てられる」側に立たされる人の心情に 思いを巡らせることは、意味のない事だとは思わないんです。

念押ししますが、だから「切り捨てるべきでない」 って意味じゃ、ないんですよ。 日本だけではないのかもしれませんが、 少なくとも日本では、 こういう「情緒的意見」が流れると、 実際の議論が飛んでしまいがちだと思います。 (例えば「反戦運動」で指摘したような事例、とか・・・) ソレはソレ、コレはコレ、 ちゃんと切り離して考えるべきでしょう。 そうではなくて、 「一人一人の人間として、どうするべきか」を、 考えたいのです。

研究業界の話

実は、私が現在いる研究業界でも、 近いような事がないわけではないんです。

今、研究業界でしきりと言われているのは 「研究人材を流動化すべきだ」と言うことです。 世界的な激しい競争時代に入った科学技術研究において、 日本が世界と互して行くには、 今までのような硬直したシステムでなく もっと柔軟に変動できるシステムにするべきだ、 例えば、新しい研究分野に選択的に人員を投下したり 「適材適所」に効果的に人員を配置できるように もっと人が流動化するような仕組みを作るべきだ って言う理屈です。

理屈は理解はできます。 しかし、 「流動化」させられる側の人間としては、 たまったものではないんですね。 だって、「いつまで経っても安定しない」って事、でしょ? だいたい 「適材適所に効果的に人員を配置」などと言ってみても、 それを「配置する側」の、 つまり上のシステムが硬直化したままで、 「下」の人間だけを流動化させても、 きちんと効果的に機能するとは思えないですしね。 その中で不遇をかこす人がいっぱい出そうだ、って事が 「下側」の人間としては思える訳です。 そうでなくても 「理系の人間」は恵まれていないって思いは、 毎日新聞産経新聞が取り上げるように、あるわけですし。

・・・単に「愚痴」に捉えられそうですね。 (実はそう捉えられるように書いているんですが。) これのどこが「近いような事」なのか。 説明します。

この「研究分野の事例」においても 「日本全体のため」にどうすべきか、という「正論」が マスコミを賑やかしている訳です。 実際にその場に立たされる側の人間のことは 省みられずに。

もちろん、 こういう「正論」に対する「まっとうな意見」は 私自身、ちゃんとあります。 だけど、 それ以前に、その「議論」の当事者としての「痛み」は 間違いなくあるんです。

その「当事者としての痛み」に、 私たちはどのように向き合うべきなんでしょうか?

正体不明の被害者意識

ここまで読んで頂いて、 陰鬱な気分になった方、どうもスミマセンでした。 ここからが一番、語りたいことです。

ここまでの「議論」が陰鬱なのは みんなが「被害者意識」で物事を語っているから、 ではないでしょうか。

道路建設を批判する側の人たちも、 それに対し「地方の切り捨て」のような 反論をする人たちも、 どちらもが、被害者意識でしか 物事を語っていないように思います。

だけど お互いの「被害者意識」をぶつけあっているだけでは、 建設的な議論は始められないように思うんです。

よっぽど恵まれた人でなければ、 多少の被害者意識は持ってしまう事は あるんじゃないでしょうか。 それに対し、どう向き合っていくべきか・・・ 「道路建設を仕事としている人たち」 の立場に立って想像してみることで、 このことについて考えてみたいのです。

そもそも仕事って・・・

仕事をする意味って、なんでしょう? 中学校の公民の授業で習ったことですが、 3つの意味があるそうです。 1つは、誰でも分かる、お金を儲けるため、ですね。 2つ目は、かっこつけた言い方をすれば「自己実現」のため つまり、 社会的な立場を得たい、名誉がほしい、 人に認められたい、ために仕事をするんですね。 3つ目、あと1つ、 「こういう意味がないと仕事なんてやってられない」 と先生は言っていましたが、 それは「社会奉仕」です。

つまり 社会の役に立ちたい、人々によりよいモノを届けたい、 そういう気持ちがあるから仕事をするのだって。 もちろん、これは 「そうやって人に認められたい」のように、 2つ目の理由と不可分なトコロはあるでしょうけど、 純粋に「人の役に立ちたい」って気持ちは 誰でも多少は、あるんじゃないですか?

だとするなら、 やっぱり多少は考えると思うんです。 自分の仕事は、 社会にどのように役に立っているのだろうか? 社会の中で、どのような意味があるのだろうかって・・・

そう考えると、 今の「道路族」の人たちは、 悩ましい立場にいるなあ、と思います。

きっと、多くの人にとっては、 仕事に対する態度って、基本的には 「与えられた仕事を、いかに誠実にこなすか」 という事だと思うんです。 だけど、 こういう仕事の場合、 いくら、組織の中で誠実に仕事をこなしたとしても、 誇りを持つことは難しいかも、って。 頑張って丁寧に、良い道路を造っても、 それが使われずに借金だけが残る、 みたいに言われたとしたら、 それはとても悲しい事だなあって。

実は、他人事ではないんです、 研究者にとっても。 直截に「世の中の役に立っている」と思える研究って、 実は少なかったりするのね。 研究ってギャンブル的な要素が大きいので、 それが外れてしまえば 「役に立つ」ものではなくなる訳ですが、 だからと言っても、そういう研究もあって 「役に立つ」研究もあるんですから。 初めから「当たり」が分かってるのではありませんし。 「宝くじは買わないと当たる事はない」 って言いますよね。 また 「ギャンブルをするための下準備」 みたいな研究もいっぱいあります。 いや、実は多くの研究はそういうものなのかもしれない。 そういう研究もあってこそ、 「役に立つ研究」だってある訳ですが、 やっぱり少しでも「役に立つ」ことを、 やりたいですよね?

だから、 研究者仲間の間でも 「自分たちはイマイチ、世の中の役に立ててないね」 なんて話していたり、しますからね。 それだけに 「道路族の憂鬱」も、想像できない訳ではないんです。

それではどうすれば良いのか? なんか、相変わらず「憂鬱な話」ですねぇ。 スミマセン。 「じゃあ、どうしろって言うの?」 と言いたくなる話でしょう。
・・・私、そんな偉そうな事言える立場じゃないんですが、 ちょっと「偉そうなこと」を言わせて頂きますね。

結局、腹くくるしかないんじゃないでしょうか。 自分が、どうしたいのか。 それだけしかないんだって思います。

自分は、何がしたくて、何を求めて、 仕事をしているのか? それをちゃんと「自分自身の問題」として、考える。 恵まれない状況のせいとか、 社会のせいとかにしてしまわずに。

「自分の仕事が社会のためになってない」 とむなしく感じるなら、 それで、もし「どうしても社会の役に立ちたい」 と思うなら、 自分の仕事で、どうやって「社会の役に立てるか」 を、頑張って模索する。 道路だったら、 「使われない高速道路」ではなく、 地元の人たちにとって切実に必要な、 普通の道路を造るような会社で働くようにする、 とか。 (私は現場を知らないので想像で書いています、だから、  とんちんかんな事かもしれません、スミマセン。) もしくは、 そういう仕事の中で、 「自分なりの意味づけ」を行おうとするとか。

社会のせいとかにするのが、 悪いって思っている訳じゃ、ないんです。 社会を良くしようとするのは、必要な事のハズです。 (そうでないって人は、  「北朝鮮で生きるのもかまわない」ですか?) ただ、 「社会のせい」にしてしまうと、 問題が自分から遊離して「他人事」になってしまう ように思うんです。 そうではなく、 「不遇な境遇」や、「酷い社会」の中で、 自分がどうしていくか、を、 「自分の問題」として引き受ける覚悟をする・・・

だから、 別の形での「腹の括り方」もあると思う。 例えば、たとえ社会の役に立たなくても、 「道路族の利権構造の中に殉ずる」 という生き方も、アリでしょう。 ただし、 その場合は社会から責められたり 寄生虫扱いをされる事も引き受けるべきでしょう。 その事を「被害者面」して語ってはイケナイ、 と思うんです。

私の話でいけば、 流動化が求められる研究業界の中で、 どう生きていくか、を、 腹をくくるしかないって事でしょうね。

偉そうに書いていますが、 それが自分はできているか、正直、自信はないです。 迷いながら、手探りで、やっているって感じです。 (その辺りの気分はこのHP作りの  モチベーションに関わっている、かも・・・) だけど。

何に対して言っている、かは分かりますよね? 人間性を否定」はしないけど 「仕事に対する態度」は問われるんだ、と私は思います。

### 参考:「腹の括り方」の好例として
音楽のこれから